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持田直武 国際ニュース分析
記者時代の取材秘話


ベトナム、メキシコ、ソウル、ニューヨーク、ワシントン特派員時代の取材現場の楽屋裏を披露

1.南ベトナム臨時革命政府樹立宣言のまぼろし
【日本記者クラブ会報382号 2001年12月寄稿】
 1969年6月9日、私が帰国準備をしていた頃だ。夕方、解放戦線の地下放送を聞いていたNHKベトナム支局員のフン君が叫んだ。「ベトコンが臨時政府を樹立した」。大ニュースだった。戦闘集団の解放戦線(ベトコン)が政府に脱皮するというのだ。ベトナム戦争の転機になる。・・・(続く⇒)




ベトナム特派員時代の筆者(前列左側) 
中央は同僚の田中記者(故人) 周囲は大学出のインテリ米軍士官達
1968年4月、佐官待遇の従軍記者として南ベトナム北部の激戦地ケ・サンを取材。


2.金大中氏の政治裁判の頃
【オリジナル記事 2002年7月23日掲載】 
 1975年12月12日、日本大使館で大使とソウル特派員の懇談会があった。翌日は金大中氏に選挙違反事件の判決が言い渡される。特派員の関心は日本の対応についてだった。だが、大使は質問を巧みにかわし、核心に触れない。最後に「俺はあすゴルフに行く」と言い残して部屋を出た。判決で金大中氏が有罪になれば、同氏は来日できず、日本政府が主張する拉致事件の原状回復は遠のく。その判決の日、大使がゴルフとは。私は東京あてに「日本大使館の幹部はゴルフに行くと言っている」とボイスレポートを送った。(記事全文⇒)



金大中氏自宅にて、取材する筆者(左側)1975年10月

当時金大中氏はは自宅軟禁中。24時間情報機関員が自宅を監視し、外出には機関員が尾行、来客はほとんどなしという状態で、時折外国報道陣が訪問するだけだった。


3.スカルノ大統領失脚の時
【オリジナル記事 2002年8月28日掲載】
 1967年2月22日夜、スハルト閣僚会議議長が閣議の部屋に記者団を招き入れた。まもなく、ジア情報相が駆け込むように入って来た。そして、一枚の厚い紙を高々と掲げる。「スカルノはインドネシアの大統領、及び国軍最高司令官の全権限をスハルト将軍に委譲する」という大統領声明だった。日付は2日前の2月20日。その下にスカルノの太いサイン。だが、インクがまだ濡れていて、直前に署名したことが明らかだった。インドネシアが独立の英雄スカルノからスハルトの時代に変わった瞬間だった。  数日後、NHK外信部から「東京に滞在中のデヴィ夫人が女児を出産した」という情報が届いた。これを大統領官邸の秘書に伝えると、折り返し大統領が大変喜び、名前を考えたので伝えて欲しいという返事が返ってきた。全権委譲のあと、大統領が外国との連絡を絶たれたことを示していた。(記事全文⇒)




スカルノ大統領の官邸だったジャカルタのムルデカ宮殿の通用玄関(撮影1967年2月)
この奥に秘書が待機、訪問者リストがあった。 記者団は玄関入り口で待機していた。



4.金日成主席の謝罪
【オリジナル記事 2002年9月20日掲載】
 朝鮮問題の権威あるジャーナリスト、ドン・オーバードーファー氏が1997年の著書「The Two Koreas」で、金日成主席の謝罪の話を紹介している。1972年5月、韓国の李厚洛中央情報部長が初めてピョンヤンを訪問して同主席(当時は首相、労働党総書記)と会談した時のこと。主席が「朴正熙大統領にすまないことをした」と謝罪したという。17年後オーバードーファー氏はこの話を李部長の元補佐官から聞いて、著書に取り入れた。私も会談の1年後、この話を韓国政府高官から聞いた。その骨子は、先日の日朝首脳会談で表明された金正日総書記の謝罪とまったくと言ってよいほど似ている。(記事全文⇒)

    
【写真左側】ソウル北方の北岳山。ふもとに大統領官邸がある。北朝鮮特殊部隊はこの山間をすり抜けて、官邸に2キロまで接近した。(撮影:1973年6月、当時一般人は撮影禁止だった)
【写真右側】手前の塀は日本大使館、その先は韓国日報のビル。壁に沿う人影は大使館警備の兵士達。文世光の大統領襲撃事件後、日本大使館に連日デモ隊が押しかけていた。(撮影:1974年8月)

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