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記者時代の取材秘話1
南ベトナム臨時革命政府樹立宣言のまぼろし
持田直武 国際ニュース分析

ベトナム特派員時代の筆者(前列左側) 
中央は同僚の田中記者(故人) 周囲は大学出のインテリ米軍士官達
1968年4月、佐官待遇の従軍記者として南ベトナム北部の激戦地ケ・サンを取材。

日本記者クラブ会報382号 2001年12月寄稿

・ジャングルの地下放送

 1969年6月9日、私が帰国準備をしていた頃だ。夕方、解放戦線の地下放送を聞いていた支局員のフン君が叫んだ。「ベトコンが臨時政府を樹立した」

 大ニュースだった。戦闘集団の解放戦線(ベトコン)が政府に脱皮するというのだ。ベトナム戦争の転機になる。だが、当日の支局の態勢は最悪だった。支局長はミッドウエーで行われたニクソンとグエン・バン・チュー両大統領の会談取材で出張。残っていたのは、私とフン君だけ。支局の長老ニュット氏はもう帰宅した。しかも、私は取材活動を自粛中の身だった。

 実は二ヶ月ほど前、南ベトナム国家警察の私服二人が私の逮捕状を持って支局に来た。私はたまたま外出中で拘束はまぬかれた。取材先の一人、チャン・バン・フオン首相の秘書官に理由を聞くと、解放戦線と接触した容疑だという。私は密かにバンコクに出張、一ヶ月あまりしてサイゴンに戻った。その際、同秘書官に今後取材活動はしない、後任が来たら帰国すると約束したのだ。しかし、臨時政府樹立となれば話は別だ。 私は支局員と手分けして放送内容の確認を急いだ。だが、米大使館、米軍、南ベトナム政府、どこも放送をキャッチしていないという。日本大使館の三井書記官には「NHKのトクダネだ」とひやかされた。

 残念なことに、フン君は放送をメモ書きしたが、録音しなかった。彼はユエ王朝の由緒ある出身という触れ込みだが、NHKで取材を始めてまだ一年足らず。その日は録音を忘れたというのだ。しかし、彼のメモは納得できるものだった。 解放戦線が六月五日から三日間、人民代表大会を開催して憲法に相当する一四条の決議を採択、臨時革命政府を組織した。そして、解放戦線のグエン・フー・ト議長を諮問評議会議長に選出、首相にはフイン・タン・ファト、外相にパリ和平交渉代表のグエン・チ・ビン女史を選出したという。

 当時、米軍と南ベトナム政府軍は一日二回、報道陣に戦況を説明したが、解放戦線側の情報はこの地下放送経由しかなかった。しかも、激戦下のジャングルの放送だけに、放送時間も周波数もよく変わった。革命政府樹立宣言も再放送がなければ、フン君のメモが唯一の頼りとなりかねないのだ。

 私は再放送に備えて支局のラジオをすべてオンにし、一方で電話をかけ続けた。しかし、つながるのはサイゴン市内だけ。国際電話は申し込むことはできるが、ほとんどつながらない。この時も例外ではなかった。夜の外出禁止時間がせまってきた。道路は鉄条網で閉鎖される。その前に支局員は帰宅しなければならなかった。


・切れたテレックス

 深夜、私はそれまでの取材内容を原稿にして電報局に走った。と言っても、私一人では行けない。外出禁止中は米軍に電話し、連れて行ってもらわなければならない。この時も、米兵四人が機関銃を据え付けたジープ二台で支局にやって来た。電報局まで一キロ足らずだが、その距離を私が乗った一台がゆっくり走る。そして、もう一台が私のジープの前、次は後ろへとまるでミズスマシのようにせわしく動き回って進んだ。解放戦線のスナイパーを警戒したのだ。

 当時のサイゴン電報局はテレックスが二台。局員にローマ字書きの原稿を渡すと、運が良ければすぐつながり、目の前で発信される。この時はすでに夜勤時間で、顔見知りの局員が当番だった。私は彼にチップを渡し、テレックスを自分で打ちたいと頼んだ。東京のデスクに直接説明したかったからだ。このような交信は禁止されていたが、局内には他にだれもいなかった。

 幸いテレックスはすぐつながる。私は革命政府樹立のリード部分をまず送った。すると、デスクの反応は「確認は取れているか」だった。私はサイゴンでは確認は難しいこと、とりあえず本文を送るから、パリの解放戦線代表部に連絡して確認して欲しいと打ったところで、テレックスはプツンと切れた。それからたたいても、さすっても、もうつながらない。結局、送れたのはリードだけだった。

 よく朝、ニュット氏から「地下放送が政府樹立を伝えた」という電話がきた。まもなくAPが至急報を配信、米軍放送がトップニュースで伝え、午前の米軍のブリーフィングはこのニュース一色だった。午後、大使館で三井書記官に会うと、「大仕事をしましたね」と言われた。トクダネをものにしたと思ったようだ。私は否定することもできず、あいまいに笑うしかなかった。


・あの日、放送は本当にあったのか

  私はサイゴンを去り、メキシコ、ソウルへと転任、その間にサイゴンは陥落した。ある日、ソウル支局で米国に逃れたベトナム難民の集会のニュースを見ていると、なんとフン君が難民の待遇改善を米政府に要求してアジ演説をしているではないか。

 フン君はサイゴン陥落後、フィリピンやカナダ経由で米国に入ったと聞いたが、その行動はかねてから謎めいていた。例の逮捕状の件も、同君の手引きで私が仏教団体の自称若手指導者たちと会ったためだ。世間話をした程度だが、会う際の彼らの警戒振りが異常だった。私がタクシーで路地裏に行き、物陰に立つ彼らを一人、一人ピックアップして支局に連れ込んだ。そんな会合を数回したあと、連絡が途絶えた。

 しばらくして、南ベトナム政府軍が解放戦線の新組織を摘発したという発表をした。その記者会見に出席すると、この自称若手指導者たちが手錠姿で引き出されたのだ。彼らのアジトで発見したという自動小銃の束も公開された。そして、私に逮捕状が出た。 支局の長老ニュット氏死去の知らせもソウルで受け取った。早朝の出棺には、解放戦線のタ・バ・トン副議長が立ち会い、葬列が長く続いたという。ニュット氏が解放戦線と接点があるとのうわさはあった。しかし、これほどの大物とは思わなかった。

 最近になって、あの日、革命政府樹立の放送が本当にあったのか疑問に思うようになった。ニュット氏が樹立宣言を事前に入手したのではないか。そして放送を待ったが、予期せぬ事情で延期されたのではないか。帰国する時、フン君が手のひらに乗るほどの小さな仏像をそっと渡してくれた。これは今も机の前に置いている。

(持田直武)


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