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民主主義の常識にイスラム教徒が憤激
持田直武 国際ニュース分析

2006年2月13日 持田直武

デンマーク紙が預言者ムハンマドをテロの一味とする風刺画を掲載、世界のイスラム教徒の憤激を招いた。ムハンマドが、導火線に火のついた爆発物をターバンのように被る絵、天国で自爆テロの死者を歓迎する絵などだ。欧米では、表現の自由の行使だが、イスラム世界では許されざる冒涜。西欧社会が、増大するイスラム系移民に侵食されるとの危機感があり、根は深い。


・増加するイスラム系移民との確執が背景

 イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したのは、デンマーク最大の日刊紙ユランズ・ポステン。05年9月30日の文化面だった。12人の作者が1枚ずつ描いた絵を双六のように配置した組み絵。英紙ザ・タイムズの漫画家ブルックス氏は「一目見て、なんと力量不足な絵と思った」という代物ばかりである。だが、それが世界のイスラム教徒の憤激を呼び起こすことになる。原因は、12枚のうち2枚が、ムハンマドをテロリストの一味として、侮蔑的に描いているからだ。

 1枚は、ひげ面のムハンマドが頭にターバン状の黒い爆弾を載せ、導火線に火がついている。もう1枚は、天上の雲の上。ムハンマドが自爆テロで命を捨てた男たちを出迎え、「もうよい、止めなさい。もう、処女が品切れになった」と言い訳している。自爆テロに命を捧げれば、天国に迎えられ、処女がかしずく生活を約束されるという、一部に伝わる俗説を下敷きにした悪ふざけだ。これを見て、イスラム教徒が憤激するのは当然だった。

 だが、ユランズ・ポステン紙のローゼ文化部長は、掲載は「表現の自由を護るため」と主張する。2月1日のザ・タイムズによれば、同部長は「表現の自由は、西欧諸国が何百年にわたり維持してきた民主主義の原則だ。その原則が、全体主義と権威主義のイスラム勢力によって脅かされている。一度屈すれば、彼らは新たな要求を突きつけてくる」と主張。風刺画の掲載は「我々の権利主張だ」と言う。ユランズ・ポステンは中道右派に位置する新聞。風刺画掲載の背景には、増加するイスラム系移民が西欧の伝統文化を侵食するとの危機感がある。


・イスラムの恐怖で表現の自由が萎縮

 ユランズ・ポステンが風刺画を掲載する2週間前、デンマークのもう1つの日刊紙ポリティケンは「イスラム批判の恐怖」と題する記事を掲載した。同紙はその中で、「預言者ムハンマドの生涯」という本を書いた童話作家の話を紹介している。彼は、本にムハンマドの肖像画を挿入するため、それを描くイラストレーターを探した。しかし、最初に接触した3人が断り、ようやく1人が名前を出さない約束で引き受けたという。イスラム教は、偶像崇拝につながるとしてムハンマドの肖像画を禁止している。だが、3人が断った理由はそれだけではなかった。

 ポリティケン紙によれば、断った理由として、イラストレーターの1人は、04年11月、アムステルダムでオランダの映画監督テオ・バン・ゴッホがイスラム過激派に殺害された事件をあげた。同監督は高名な画家バン・ゴッホの一族、映画や評論活動でイスラム諸国の女性の人権軽視をテーマにしたことが反感を買ったと見られている。また、もう1人が断った理由は、「04年10月、コペンハーゲン大学でコーランを講義中の教授が5人の男に襲撃された事件」だった。この事件の犯人たちは、教授が非イスラム教徒の学生にコーランを読み聞かせることに反対していた。

 ポリティケンがこれを報じると、デンマーク国内ではこうした「表現の自己規制」に対する是非論争が起きる。コメディアンが「テレビでコーランの風刺は無理」と明かすと、イスラム関係の論文翻訳者は「翻訳は匿名でしかできない」と応えるなど、自己規制の拡大は明白だった。ユランズ・ポステンのローゼ文化部長は、「この風潮に挑戦するため、ムハンマドの風刺を企画した」という。そして、25人のイラストレーターに接触、各自が思うとおりにハンマドを描くよう依頼した。13人が断ったが、12人は応じ、9月30日の文化面に「ムハンマドの顔」として掲載した。


・風刺画がエジプトに伝わり、外相が動く

 デンマークは人口540万人弱のこじんまりした王国で、イスラム系住民は約20万人。20世紀後半は、社民党政権下で福祉国家の模範といわれたが、01年11月選挙で中道右派の自由党ラスムセン政権が成立する。有権者が当時顕著になったイスラム系移民の増加に危機感を抱いたことが大きく影響した。このため同政権は就任後、ただちに移民制限法を制定、イスラム系住民の増加抑制に乗り出した。このイスラム系住民がユランズ・ポステンの風刺画を見てまず反発、「預言者を崇拝する欧州委員会」を結成することになる。

 そして、署名運動などの抗議行動を展開したほか、デンマーク政府に対しても対応を要求した。同委員会はまた、デンマーク駐在のイスラム諸国の大使に首相への働きかけを要請。10カ国の大使が10月12日、ラスムセン首相に面会を求めた。しかし、首相は面会には応じなかった。同委員会はその一方で10月28日、ユランズ・ポステン紙を誹謗罪で刑事告訴もした。しかし、地方検事が調査をしたものの、立件することはできないとの結論だった。そこで、同委員会は複数の代表団を組織、中東諸国に派遣して各国政府に直接訴える計画を進める。

 そして12月、最初の代表団がエジプトに到着、ゲイツ外相やアラブ連盟のムーサ事務局長と会見して、風刺画などの資料を渡し、実情を説明することができた。デンマーク国内の問題が、これで国際的に拡大することになる。実は、ゲイツ外相は12月5日からサウジアラビアのメッカで開かれるイスラム諸国会議(OIC)の首脳会議に出席する予定だった。その直前にデンマークから来た無名の代表団とあえて会ったのは、それなりの理由があった。


・首脳会議で抗議のコンセンサス生まれる

 インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙によれば、代表団はカイロでの記者会見で、デンマークの右派政党社会人民党がコーラン禁止の提案をした事実に触れた。理由は、暴力を奨励する部分が約200箇所あるということだった。カイロの新聞がそれを誤って報道、デンマーク政府がコーランの検閲を計画していると伝えた。反響が拡大、エジプト政府も黙視できない。そこで、ゲイツ外相が事実確認も含めて代表団に会ったのだ。そのあと、同外相はイスラム諸国首脳会議に出席、各国首脳に代表団の話を伝えた。その後に起きる抗議のコンセンサスがここで生まれたと見てよいだろう。

 12月末、イスラム諸国50カ国余が加盟する教育・科学・文化機構がインターネットで、デンマークが謝罪するまで、政治、経済面でボイコットするよう呼びかけた。続いて1月4日、アラブ連盟のムーサ事務局長も抗議の声明を発表。1月25日には、サウジアラビアの宗教指導者が謝罪とユランズ・ポステン紙の処罰を要求。翌日にはサウジアラビア政府がデンマーク駐在大使の引き揚げを発表。サウジ国内では、デンマーク製品のボイコットが始まり、デンマーク製品がスーパーなどから撤去された。2月に入ると、抗議の動きは各国に拡大、大使館の焼き討ち事件に発展する。

 しかし、デンマークのラスムセン首相は「政府には新聞の報道に介入する権限はない」として、謝罪もユランズ・ポステンを処分することも拒否。また、風刺画掲載の責任者ユランズ・ポステンのローゼ文化部長は2月5日、ワシントン・ポストのインタビューで、「イスラム教徒を傷つけたことは遺憾に思う」と述べた。しかし、「私は新聞記者として、報道の規約に外れていないし、法律にも違反していない。従って、謝罪する理由はない」と主張している。両者の間に、接点がない状態が続いているのだ。


・報道の自由と信教の自由の調和に問題

 西欧の新聞の中には、ユランズ・ポステン紙を支持し、同紙が掲載した風刺画を転載する動きも現れる。1月10日、ノルウェーのキリスト教系新聞マガジネットが風刺画を転載。ドイツの新聞ディー・ベルト、フランスのフランス・ソワールなどがこれに続いた。いずれも、表現の自由を擁護するとの理由を掲げている。一方、米のフィラデルフィア・インクワイアラーのように「宗教に関する絵が問題の中心であり、読者自身が判断するためには、風刺画を見ることが必要」と主張して掲載した新聞もある。

 デンマーク国営ラジオが1月29日に実施した世論調査によれば、
・首相は謝罪するべきではないという答が79%。
・ユランズ・ポステン紙は謝罪するべきではないという答が62%。
・ムハンマドの風刺画掲載はユランズ・ポステンの権利だが、同紙は同時にイスラム教徒の批判も考慮するべきだったという答が58%。

デンマーク国民の世論は、ラスムセン首相とユランズ・ポステンを圧倒的に支持して いる。同時にイスラム教徒の反発にも配慮すべきだったとの意見が過半数あることにも 注目しなければならない。ローマ法王庁は「風刺画が何億ものイスラム教徒を傷つけた」 としてユランズ・ポステンを厳しく批判する声明を出した。また、政府に対しても「国 旗など世俗のシンボルを法律で保護するが、宗教的シンボルの保護は無視している」と 述べ、政府の無策も批判した。


・民族国家のグローバル化対応に限界

表現の自由と信教の自由は、民主主義を支える重要な柱として、これまで米や西欧など国内では調和して運用されていた。そこえ、イスラム系移民の急増という事態が起き、伝統的民族国家の各国は対応の限界を露呈した。それが現れたのが、去年10月から11月にかけて起きたフランスのイスラム系若者の郊外暴動であり、今回のムハンマド風刺画だったと言ってよい。世界は否応なしにグローバル化し、西欧へのイスラム系移民は今後も続く。西欧民族国家がそれに対応できるか、今後の大きな課題になる。


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